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虎キチ

ベタベタの関西人の私は、やはり阪神ファンです。 ペナントレースも大詰めになろうとするこの前の週末は、連敗中の巨人と連勝3試合連続2ケタ得点の我がタイガースの首位決戦でした。 結果は。。。。。 ええとこなしの3連敗 なんじゃあ、そら〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!! はぁ、休み明けも気分はさえず元気が出ません。 大事なとこでいつも負けるんですよね。 さて、その中で気になるのが今負けていることもさることながら、時代の担う若手が全く覇気がないことです。もちろん今勝つこともうれしいのですが、勝つにせよ負けるにせよ、 「未来」がある これはとっても大事です。 仕事でも同じ事がいえるのではないでしょうか? うちのメンバー、私も含めミスをすることが少なからずあります。内容はまちまちで程度のさもありますが、基本的に私はミス自体をしかるようなことはしないようにしています。今、ミスをしてしまったことを叱られて済ませてしまうのはあまりにももったいない!!そう思いませんか? それでは、未来は光らないのです。なぜ、ミスをしたのか、本当の原因は何なのか、外部要因をすべて取っ払ったとして自己の内側に何があって何がなかったのか?そのことを見つめることができるのなら、組織にとってミスはその瞬間に金のなる木に変身するのです。そして、忌み嫌うべきは、環境や他人のせいにして自己を省みないこと、正当化するなどはもっての他ですが、そうでなくても叱られて許されることでなかったことにしてしまう甘さは組織として許すべきではないのです。 「間違い」=「罪」とするのは危険かもしれませんが、もしそうだと例えると、「罪」は何かの罰で許されるものではなく、いつまでもどこまでも背負っていかなければいけないものだと思うのです。 灰谷健次郎の小説の一節にそんな事が書いてあったのを覚えています。そんなことがある度にあのページの内容が頭に浮かんできます。

専門家とは?

先日、ある人から興味のある話というか言葉をお聞きしました。 「専門家とは、その分野でのあらゆる失敗を経験したもののことである」 なるほど!!と思わず感心してしまいました。 何かその分野に関係のある仕事をしていたり、ましてや大学で専門として専攻していたというのでは、決して使い物になるわけではないというのはそういうことなのかと。 よく大学や大学院の情報関係の学部や研究をして社会人になった子たちが自信満々で専門用語を吹聴したり、やたらと観念論を気取っていざ仕事をすると、まぁだいたいがうまくいかず、お客さんからも「なんじゃあいつは!?」とおしかりを受けることがよくありました。そして、当の本人は「あのクライアントは、システムがどういうものかよくわかってないんじゃないんですか?」とばかりに小馬鹿にするような言いぐさでふてくされてみたり。。。。 まぁほんとによく見かける光景です。ましてやその大学が元帝大クラスとなると目もあてられない惨状が。。。というと大げさかもしれませんが悲しいけど現実の話です。 そういうことも見かけるたびに、きっと私よりも頭脳も優秀で、学問知識が豊富な彼らがなぜそうなってしまうのかよくわからない思いでした。 くだんの言葉は、失敗の積み重ねこそが成功の確実な礎になるということ、そして、そのような礎を築くためには失敗を失敗と認め、なぜ失敗したのか?どうしたらうまくいく可能性がもっと高まったのかを徹底的に考え抜く習慣を身につけなければいけないと言うことを言下に語っているのではないでしょうか? それは、仕事を「早く済ませてしまいたい」という姿勢で取り組んでいる人の頭には決してひらめかない発想です。 なぜなら、(自分の中で)すんでしまったことは考えたくないし、もしかしたらよくない品質のものをあいてに手渡してしまったとき、目を背けることで自分を安心させようとするからです。減点を避けることに重点が置かれているのです。 仕事を通して、何かで人をあっと言わせたい、「やるやん」と褒めてもらいたいと思えば自ずから、必ずとは言わないまでもその延長線上には、「専門家」という言葉で呼ばれる可能性が待っているのだと思うのです。 悲しいけれど、「怒られたくない」という思いだけで仕事をする人がいます。恥をかかないために努力をせず、騙しのレトリック探しに奔走する人がいます。目立たないようにして他